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子どもを生むということは理屈じゃできない。その理屈じゃないところに社会全体が支えられている

前回の記事「障がい者の人生を誰が評価できるの? みんなが不完全であり、みんなに可能性がある」に大変多くの反響をいただきました。ありがとうございます!^^

今回はその反響の中から、社会において「出産」が持つ意味をもう少し考えてみたいと思います。

 

ところで、今回のタイトルは前回記事でも使った言葉ですが、この言葉は名作マンガ「ブラックジャックによろしく」NICU編の名セリフを少し変えて使っています。

 

(この名作が著作権フリーになっていることは、本当にすばらしいことです!

今回は主に3巻4巻の「NICU編」から引用を行っています。

Kindleなどで無料でダウンロードして読めますので、まだ未読の方はぜひ読んでみてください^^)

 

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子どもを生むということは、極めてプライベートな行為です。

「親が、何をどのように考えているか」にすべてがかかっている、と言っても過言ではありません。

 

私としては、出産のプライベート性を最大限に尊重します。

前回記事では私と妻のプライベートな判断をご紹介しましたが、それはあくまで私と妻の判断です。

出生前診断はそれぞれのご家庭の判断で活用されるべきであるし、中絶も避けられないケースがあるでしょう。

おそらく、そこに「唯一の正解」というものはないだろうと思っています。

 

その上で、前回記事に対して、NewsPicksからコメントいただいた堀義人・グロービス経営大学院学長のご意見をご紹介してみます。

一緒に考えてみましょう。

 

———

 

本件に関しては、感情的にならずに冷静な議論が必要だと思います。以下が、wikipedeiaからのコピペです。欧米での現状と議論の推移がまとまっています。

<ダウン症胎児の中絶率>
イギリスの国家ダウン症候群細胞遺伝学登録簿(NDSCR)のデータによれば、登録が始まった1989年から2006年における、ダウン症候群の診断を受けた後に中絶を選んだ女性の割合は、継続的に約92%である。

<ダウン症胎児の中絶に関する議論>
医療倫理学者のロナルド・グリーンは、両親は自分の子孫に「遺伝的な害」が及ぶのを避ける義務があると主張している。イギリスのジャーナリスト、ドミニク・ローソンは、ダウン症の娘が生まれた際、彼女に対する無償の愛と、彼女が存在することの喜びと同時に、妻が検査を受けていれば中絶できたという外部の声に怒りを表明した。

これに対し、長い期間、ダウン症協会の支援者であったクレア・レイナーは、中絶を次のように擁護した。「辛い事実としては、障害を持った個人の面倒をみるということは、人力、哀れみ、エネルギー、そして有限の資源であるお金がとても掛かると言う事だ・・・。まだ親になっていない人は、自分に問いかけてみるべきだ。自分が他人(社会)にその重荷を背負わせる権利があるのか、もちろん、その重荷の自分の持分をすすんで引き受ける前提としてだが。
(コピペ終わり)

障害者を持つご両親そして、障害者ご本人の気持ちへ配慮をしながらも、一方では、社会の負担が「人力、哀れみ、エネルギー、そして有限の資源であるお金」として存在するのは、事実だと思う。欧米でなされている様な議論を、感情的にならずに日本でもできるようにしないと、本件に対する理解は進まないであろう。

 

———

 

堀さんのご意見はよくわかります。

冷静な議論が必要だということも同意しますし、様々な議論を見た上でそれぞれのご家庭で出された判断に対しては、それがどのようなものであれ、異論をさしはさむつもりはありません。

 

ですので、これから書く私の意見も断定的なものではなく、これから子どもをもうけようと考えている人々の判断の一助になればとの思いで書かせていただきます。

 

「社会」が「人」を切り捨てるという勘違い

 

さて、上記の堀さんのコメントは「理屈としては」もっともらしく見えます。

しかしこのコメントは、「異なる2つの位相」が混ぜこぜになっています。

 

「親」が自分の子どもである障がい児に対して「人力、哀れみ、エネルギー、そして有限の資源であるお金」を費やすことに限界があるという議論なのか。

 

それとも「社会」が障がい児者に対して「人力、哀れみ、エネルギー、そして有限の資源であるお金」を費やすことに限界があるという議論なのか。

 

ここが混ぜこぜになっているのです。

 

「親」も人間です。限界があります。

「個人としての親」が障がい児を受け入れることができなかったとしても…私としては慙愧の念に堪えませんが、無理なことは言えないでしょう。

 

しかし、「社会」が「人力、哀れみ、エネルギー、そして有限の資源であるお金」を費やすことに「限界があるのだから、中絶もやむなし」なんて話をしているなら、それは何か根本的なところで勘違いをしてらっしゃるんじゃないでしょうか、と思えます。

 

もう一度タイトルに戻ります。

「子どもを生む」という、理屈じゃどうにもならない、極めてプライベートな行為があるおかげで、初めて社会というものは成り立たせてもらっているのです。

 

限界がある「個人としての親」を支えるべく社会が全力でサポートしてこそ、初めて社会は社会たる意味があるのであって、社会のほうから「子どもを生みなさい。ただしこういう子はいらん」などとのたまうことは、私の目には「社会の自己否定」にしか見えないのです。

 

どうしても「社会には障がい者を支えるリソースが足りない」と言いたいのであれば、それを数字で示していただいて、他のすべての政策と優先順位を比較検討しなければ議論になりません。

 

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素朴な疑問なのですけれども、人口ボリュームとして「団塊の世代」が大きく、その子どもの「団塊ジュニア」も大きいのですが、なんでその下の「団塊の孫世代」が大きくならないのか…と思うわけです。

 

私には、社会のほうに「生まれてくる子どもはみんな歓迎しよう、親を全力でサポートしよう」という姿勢が欠けていたからではないかと思えてならないのです。

「これから生まれてくる子どもたち」が天国から日本社会を眺めて、「なんか、あんまり行きたいところじゃないなぁ…」なんて言われちゃってるのではないかと…(´・ω・`)

 

せめてもうちょっと、子どもたちが喜んでやってくる社会をめざしたいものです^^

 

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ブログ筆者プロフィール

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中妻 じょうた 板橋区議会議員

板橋区議会議員「IT区議」中妻じょうたです。 長年ITプロフェッショナルとして働いてきた経験を生かし、より多くの区民の声を区政に反映する仕組みづくり、そして人の可能性を伸ばす教育・子育て、また障がい者福祉など社会弱者の対策に力を入れていきます。 仙台出身。東日本大震災被災地支援や原発問題には積極的に関わっていきます。 趣味は中国武術、マラソン、ゲーム、読書など。

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