今日は、3月11日。
東日本大震災から、ちょうど10年となりました。
戦後最悪の大災害。
私にとっては、まったく薄れていない記憶です。
10年前、何があったか。
旧HPでは逐次記事を残していたのですが、サーバ内の各種プログラムのバージョンが合わなくなり、旧HPの内容を復旧できなくなってしまいました。
そこで、この新HPで極力写真を掘り起こし、当時を振り返ってみたいと思います。
2011.3.11 板橋区高島平 高島第一小学校
14:46、東日本大震災発生。
板橋区でも凄まじい揺れが起こりました。
当時私は、まず家族の無事を確認し、その後、近所で困ったことになった人がいないかどうか、確認して回ったのだと思います。
この写真は、17時頃に高島第一小学校で撮影したもの。
当時の校長先生に、高島一小に特別に備え付けられている地震計の記録を見せていただきました。
14:00台に計測された波が、真っ黒に振り切れているのがよくわかります。
2011.4.1 板橋区高島平 ローシャン・ドネルケバブ
東日本を巨大な津波が襲い、想像を絶する被害が発生しました。
地域でも何か、助けになることができないか。
仲間と相談していました。
まず入ってきた情報は「靴が足りない」というものでした。
被災者は着の身着のままで逃げたため、靴を持っていない。津波で荒れた地面を歩くことができず、自宅付近に近づくこともできない…。
そこで、まず最初に取り組んだのが「陸前高田にくつをおくろうプロジェクト」でした。
当時、高島平7丁目に店を構えていた「ローシャン・ドネルケバブ」のご協力を得て、ご近所の方に靴を持ち寄っていただくプロジェクトを行いました。
このプロジェクトに協力してくれた方々とのご縁が、その後の被災地支援につながっていきました。
2011.5.4 仙台市 閖上
私は宮城県仙台市の出身です。
被災地が大変なのは十分承知していましたが、なんとか直接被災地とコンタクトをとり、復興支援を行いたい。
そのように思い、実家の両親に状況を聞きつつ、まず仙台市若林区の閖上地区に赴きました。
行ってみて、戦慄しました。
何もない。
何もかもなくなっている。
こんなことがあり得るのか。
当時の閖上小学校。
校舎の中に、自動車が詰め込まれてしまっています。
想像を絶する津波の力です。
2011.5.17〜18 早稲田大学
当時、私同様に仙台市生まれで仙台三高卒業生であった早稲田大学の西條剛央先生が立ち上げた「ふんばろう東日本支援プロジェクト」に、私も参加しました。
西條先生は被災地のニーズをつかみ、「生活するために、家電が不足している」という観点から、中古家電を集めて被災地に届けるという「家電プロジェクト」を企画し、私がその責任者となりました。
ふんばろう東日本支援プロジェクトの各チームからの報告模様。
様々なスキル・人脈を持つ方々が結集し、寝食を忘れて取り組みました。
2011.5.31 板橋区高島平 旧高島七小
「家電プロジェクト」の第一弾として、板橋区高島平の「旧高島七小」に中古家電を持ってきていただくよう呼びかけ、トラック協会の協力を得て、宮城県石巻市渡波地区を中心に配布する取り組みを行いました。
10tトラックに満載された家電が無事渡波地区で配布されたとの知らせを受け、ホッと胸を撫で下ろしたのをよく覚えています。
何しろ、すべてが手探り。
どんなことが起こるか、まったく予測できない中でやってましたから…。
2011.7.23〜24 都内各地
第一弾の成功を受け、家電プロジェクトをさらに大規模に実施する運びとなりました。
都内複数ヶ所で中古家電を集め、宮城県石巻市および南三陸町で配布するというもの。
このときは本当に「物流の恐ろしさ」を思い知りました…。
もう一度やれと言われても、絶対できません😅
大塚の業者さんから、中古家電をまとめてご提供いただきました。
これは本当にありがたかったです。
渋谷区の集積会場。
本当に大勢の方から家電をご提供いただきました。感謝が尽きません。
渋谷会場の責任者をやっていただいた、はるた学・渋谷区議。
頼れる先輩です!
なおこの他に大田区の会場がありましたが、私が赴くことができず、写真がありません。残念です。
こちらの会場は、柳ヶ瀬裕文・東京都議(当時)に責任者をやっていただきました。
2011.7.25 石巻市・南三陸町
なんとか集積できた家電ですが、この大量の家電を一時的に保管し、配布する場所を確保しなくてはなりません。
そんなことができるのは、いったいどこなんだ…。
石巻市では、こちらの「第一貨物石巻営業所」に快くご協力をいただきました。
本当に飛び込みでお願いしたんですよ。飛び込みで…。
こんな無茶な話を引き受けてくださった第一貨物さんには、感謝してもしきれません。
南三陸町では、西條先生とご縁があった「ホテル観洋」にご協力をいただくことが決まっていたため、ご挨拶に伺いました。そこで、震災直後の壮絶な様子を伺いました。
ホテル観洋では、被災して家屋を失った地元の方に、無料での宿泊を提供していました。
それも大変なことです。
ホテルには子どもが増えたため、子ども用の図書エリアを確保するなど、様々な工夫をされてました。
南三陸町では水道の復旧が非常に遅く、復旧まで4ヶ月もかかりました。
そのため、川で洗濯や用便をせざるを得なくなり、ひどい衛生状態になったという話も聞きました。
災害の際には、地方自治がきちんと機能しているかどうかで、住民の命や生活を守れるかどうか、復旧・復興が迅速に進むかどうかが決まってしまう、ということを痛感しました。
その後、歌津地区の仮設住宅を訪問し、地区長さんのお話を伺いました。
南三陸町は「志津川町」と「歌津町」が合併してできた自治体です。
こういう場合、「志津川の住民」と「歌津の住民」の間で、微妙な距離感があったりします。
そうしたことに関する配慮が、仮設住宅入居の際にも必要になってきます。
2011.7.29〜30 石巻市、南三陸町、東松島市
いよいよ、7.31は石巻、8.1は南三陸での家電配布です。
その最後の下準備と、小分けした家電の個別配布のために7.29から現地入り。
2tトラックの運転はすっかり慣れました^^
ナビに従って進んだら、道がない!
海の底に続いている^^;
ご覧の通り、2tトラックがUターンできるスペースはまったくありません。
ひたすらバックで引き返しました…。
震災で地形が変わってしまった場所も、たくさんあります。
南三陸町歌津地区の半島地域、泊崎の「高倉荘」に、地域で配布していただくための家電をお渡しに伺いました。
この地域は、震災時には本当に「島」になってしまい、陸地と分断されてしまいました。
このため、米軍のヘリで支援物資を投下してもらって凌いだとのことです。
また、この地域には天皇陛下(現在の上皇陛下)が慰問にいらして、大変ありがたかったというお話も聞きました。
「ところで、町議会議員は誰か来ましたか?」
「…いんや。誰も来ねぇ」
おいお〜い…。
最初に来た議員が板橋区議会議員て、どうなのよ。
もう7月の終わりですよ…。
これは泊崎に限ったことではありません。
「最初に来た議員が私」っていう場所は、結構ありましたよ…。
東松島市の仮設住宅を訪れた際には、北海道夕張の栗山商工会議所青年部の皆様が、栗山メロンを被災者の皆様に差し入れしていました。
全国各地の方々の力で、少しずつ復興が進んでいったわけですね。
東松島市野蒜地区では、津波で壊滅した仙石線および野蒜駅を、元の位置で復旧してほしいという運動が行われていました。
鉄道や駅の位置が変わってしまったら、地域住民の普段の生活に影響が出ます。
一生懸命活動されていましたが、結果的には、仙石線および野蒜駅は、元の位置より内陸側に新たに作り直されました。
地元の方々は、どのような感想をお持ちなのか…。
10年を機に、聞いてみたいことがいろいろありますね。
30日の夜は、石巻市の「前谷寺」にご好意で泊めていただきました。
本当にありがたいことです。
多くの方々との良いご縁で、たくさんの経験をさせていただきました。
2011.7.31 石巻市 第一貨物
さあ、いよいよ配布当日。
配布開始時間よりも相当早く前谷寺を出発したのですが、移動中に先に現地入りしたボランティアの方から電話。
「もう大行列になってます」
…顔面蒼白。
ウォアァアァアァアァァァ
大変なことに…。
被災者の皆様だって生活がかかってますから、必死です。
加えて、漁師のまち・石巻。
血の気の多い方が少なからず…。
このとき、第一貨物の所長さんが私からトラメガをひったくり、地元の言葉で一喝。
いやぁ、助かった…。
やっぱりこういうときは、地元の人が頼りになります。
ここで援軍登場!
ジリジリしながら列を待っていた方々からも期待の視線。
援軍・千曲運輸さんからは、追加の家電だけでなく、スイカの差し入れ!
これで、一気に場の雰囲気が和らぎました。
本当に助かった…。
危機のときこそ、美味しいものって大事なんです。
学ばせていただきました。
なんとかやりきりました!
東京から駆けつけてくれたボランティアの皆様、そして地元で被災しているにもかかわらず手伝ってくださった皆様には、今でも本当に感謝しています。
石巻での配布終了後、翌日の配布場所である南三陸町に移動し、ホテル観洋で宿泊。
ホテルにいる地元の被災者を慰問するため、伝統芸能が行われていました。
2011.8.1 南三陸町 ホテル観洋
翌日は、ホテル観洋で家電配布。
こちらも早朝から長蛇の列。
なんとかうまくいきますように…。
大きな混乱なく進んでいきますが、まずもって、並んでいる方すべてに家電が配布できるだろうか…。
ここでもありがたいことに援軍。
経営者として経験豊富な平島武文さんが、大量の新品扇風機を寄贈してくださいました。
本当にありがたかったです。
なんとか無事配布を終え、平島さんの案内で、南三陸町内の被災地を見て回りました。
こちらが「さかなのみうら」。
西條先生とのご縁で、「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の名前の元になった魚屋さんです。
なお、営業再開した「さかなのみうら」さんの2015年の写真はこちら。
Facebookページを見ると、美味しそうなお魚が並んでいます!
https://www.facebook.com/sakananomiura/
暖かくなったら、久しぶりに訪問して買いたいものですが…。
今度は、コロナとは…。
10年前には想像もしなかった事態で、またも試練のときを迎えています。
震災前と、すべてがまったく同じに戻る…のは難しいでしょう。
被災地の人口減が課題になっています。
地元の会社やお店がひとつでも多く戻ってきて、活気溢れるまちが蘇る。
そうなるかどうか、まだまだ被災地の挑戦は続いています。
「復興」は、終わったことではありません。
まだまだ、これからなのです。